見守り安心コラム

信玄の好敵手だった謙信の跡継ぎ

前回は武田信玄の跡継ぎ「勝頼」について投稿しました。信玄と云えば、やはり人生史上、お互いが最大のライバルであったと云われる上杉謙信のことは避けて通れません。12年で5回も行われた「川中島の戦い」は戦国歴史上の名勝負にも挙げられます。また、「敵に塩を送る」は対立しながらも、剣を交える以外では、争わず好敵手であるとお互いを認め合う、武将の誇り、言わば生き方の矜持として語り継がれています。                                        

謙信の跡継ぎ育成は、晩年、上杉家の重要なテーマとして位置付けられ、実子のいない謙信は甥の「景勝」と同盟国の北条から「景虎」を迎え、二人の子どもを候補にして、どちらに家督を譲るか競わせていました。その矢先、謙信が急逝してしまいますが、遺言で「景勝」を指定しています(偽の遺言だったとの言い伝えもあります)                                              景勝と景虎は、その後、御館の乱で争います。戦は当初、北条からの支援があった「景虎」が優位に進めていましたが、戦いの最中に、隣国の武田信玄が急逝の影響が「景勝」を優位に動かし、そのまま「景勝」が勝利を治めることになります。                              

その後の「景勝」は、運にも恵まれています。隣国の武田が織田信長の支配下となり、天下統一を進めるため、織田家主力部隊の柴田勝家や森長可や滝川一益に攻め込まれ、周りからは完全に包囲をされ、越後陥落も時間の問題と追い込まれましたが、信長が本能寺で謀反にあったため、織田家の主力部隊は越後周辺から撤収しました。その後、豊臣秀吉が天下を統一し、豊臣政権下での景勝は「五大老」の一人として、歴史の表舞台で歴史に名を刻んでいきます。(後の関ケ原や徳川幕府の名門上杉家として)                                    

上杉謙信の跡継ぎとして、一国の将に留まらず十分に活躍したと評価される一方、運が良かっただけと酷評されるケースも多く見られます。ただ、言えることは「運」も実力のウチではないかと私は思います。皆様の評価は如何でしょうか?